第23回 府中文化村

「わが街『府中』歴史再発見

―国府・宿場町・くらやみ祭―」

 

【2016年04月22日開催】

「府中市」はどうして「府中」という名称か知っていますか?

府中の歴史って知っていますか?

府中で育ち府中に住んで、または府中に遊びに来て当たり前のように府中という街に居ても意外と知らない府中の歴史

 

今回の府中文化村講演・交流会は府中市郷土の森博物館の小野一之館長にわが街『府中』の歴史や文化を再発見するために「国府」「宿場町」「くらやみ祭」という府中の主要3つのテーマを手掛かりに府中の魅力を詳しく講演していただきました。

小野館長は府中市郷土の森博物館館長、ならびに学芸員として史学的な面からも府中に詳しく、毎年J:COMにて放送されているくらやみ祭生中継での解説者としても知られています。

 

本年2016年は京王線府中駅ができて100年ということで、今回の講演では100年単位という大きな枠組みで府中の街を遡って解説していただきました。今回のイベントレポートは府中の歴史と文化発展をより多くの方に知っていただくため、簡易的ながらより詳しく講演内容をレポートとして掲載させていただきます。長文となりますが最後までお付き合いいただければ幸いです。

 

§1 国府

 そもそも「府中」とはどういった意味なのでしょうか、それは1300年前奈良時代に遡ります。このころ律令国家が誕生し武蔵国が作られ府中に『国府』が置かれました。武蔵国とは今の東京都・埼玉県・横浜市・川崎市の大部分という大きな国で、その国の首都、役所である国府が府中に置かれたことから「国府のある街=府中」となりました。

これは府中の最初の出来事とされています。

国府が府中に置かれた理由は最近まで根拠がなく、大きな古墳もなかったことから空白地で田舎だったからというネガティブな捉え方だったものが、最近西府にある熊野神社古墳の発掘から当時の「大和勢力繋がりが濃い有力者がおり、国府を誘致した」という説に加え、府中は南北に連なる東山道武蔵路という大きな道と多摩川の交点であり「交通の要所」となっていたことの二点により国府が府中に置かれた最有力の理由となったようです。

時は進み、鎌倉時代には鎌倉北条氏と幕府を滅ぼすために戦った新田義貞の話となります。鎌倉北条氏側からは府中を落とされれば後はなく、新田側からは府中を突破しなければ鎌倉へ進めないという攻防戦だったようで、これは分倍河原合戦と呼ばれ非常に歴史的にも激化した合戦だったそうです。このことにより府中は政治的・軍事的にも重要な場所となっていたことがわかります。

しかし、時代が進み戦国時代へ突入すると小田原北条氏が主要になり拠点は八王子城などに移され武蔵国の中心ではなくなります。

中心としての役割がなれば通常なら街は機能を失っていきます。

しかし、府中は生き延びる好機が訪れます。

 

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